こんにちは。今回はメキシコ在住歴45年・Jetrac代表の伊藤亮氏にインタビューをしました。18歳の時にメキシコに渡り、メキシコ国立自治大学(UNAM)で経済学を習得し、長年住友商事メキシコでご勤務されたのち、その経験を活かして2002年にJetrac(Japan External Trade Consulting, S.C.)を設立されました。
インタビュー前編では伊藤氏がメキシコに来たきっかけからJetrac設立の動機、更にはタクシー強盗の一部始終などをお話しいただいておりますので、是非ご覧ください。
<目次>
大学時代からメキシコで学び、現在のベースを築く
ーメキシコに来られたのが45年前にもなる伊藤さんですが、高校を卒業後、大学からメキシコで勉強されていますね。何故、メキシコを選ばれたのでしょうか。
伊藤氏:1976年に高校を卒業して、同じ年の6月にメキシコに来ました。当初は中学から高校まで英語を習っていたので、英語圏の大学に留学することを考えていました。そんなある日、メキシコ人で日本の大学に留学している男性と知り合い、私の自宅に呼んでメキシコの話を聞いてみようということになりました。彼から「メキシコはスペイン語を話す国だよ。UNAMは由緒ある大学で、ラテンアメリカ諸国ではトップクラスだよ。もし来てくれたら僕のメキシコシティーの実家に間借りしてそこから通学していいよ」ということを聞き、英語を話せる日本人は多いけれど、スペイン語を話す日本人は少ないから希少価値が高いかもしれない・・・そんなことがきっかけでメキシコに行きました。
入学後、1年くらいはUNAM付属のスペイン語語学学校に通い、1年後に経済学部に入学しました。UNAMの経済学部は5年間ですが、追試や科目の再履修など、言語の壁もあり大変苦労しました。ただその中でも数学と統計学は得意で、日本の数学の教育は高いことを実感しました(勿論、数式を理解するのにスペイン語能力は必要ないということは言えますが)。
また、大学の卒業前のカリキュラムの中で政府機関で仕事をするServicio Social、日本でいうところインターンのような必須プログラムがありましたが、私は当時の数学の審査官のリーダーの女性の教授に「1年間報酬なしで助手するから、Servicio Social プログラムの対象として欲しい」と懇願し、担当教授がいないときに教壇に立ち講義をしたり、試験の採点をしていました。そこで感じたことが、「人前で教える事は面白い」ということ。今思うとJetracでセミナーや研修をしていたことはこの時の経験が生かされているのかもしれません。
そして大学最後の年の卒論執筆時の話です。メキシコでは卒業論文を書いて卒業試験を受け、学士号のタイトルを取得するか、学士課程の科目をパスして、修士課程を勉強するかですが(※近年は他の方法あり)、私は卒業論文を書くのは人生に一度のチャンスしかないので、卒業論文の方を選びました。その時、卒業論文のテーマとして選んだのは”多変量分析を適用した企業評価”。証券取引所に上場している企業は財務諸表が公表されており、それらから 45社の企業を選びそのデータを数学的なモデルを使って分析しました。メキシコで知られていないテーマを選べば参考文献は英語と日本語ばかりになるし、試験官となる教授たちからも突っ込みをされないだろうという気持ちもありました(笑)。結果、無事合格する事ができ学士号のタイトルも取得しました。
ー大学卒業と同時にメキシコ人の奥様とご結婚され、しばらくは日本で生活されていました。日本からまた何故メキシコに戻ることになったのですか。
伊藤氏:日本で妻と暮らしていたのは、1984年末から86年春頃までです。日本滞在中の1985年にメキシコ大地震が発生したことは心に残っています。義理の両親がメキシコシティに住んでいたため、しばらく連絡が取れず心配な日々でしたが、無事だったときはとても安心しました。またその頃、日本では学校でのいじめ問題が取り上げられるようになり、今後子供を産んで育てていくためには果たして日本は最適な場所か、日本よりもメキシコの方が伸び伸びと育てていくことが出来るのではないかと思い、メキシコに戻る決意をしました。
1986年春にメキシコシティに戻った後はメキシコ人の会社で1年間働き、その後住友商事に現地採用職員として入社し、子会社への出向も含めて14年勤務しました。
自分のペースで仕事をしたい それがJetrac設立の動機
ー住友商事で14年間ご勤務された後、現在のJetracを立ち上げましたが、立ち上げたきっかけをお話しください。
伊藤氏:立ち上げた時、44歳でした。
このまま関連子会社で社長職で安泰の人生を過ごし、老後を迎えるのか?いや、自分のペースで仕事をしていきたいからいっそのこと独立しよう!
という想いのもと、Jetracを立ち上げました。そして何をビジネスの軸とするのか考えた時、住友商事の子会社時代にお客様を対象にして物流などをテーマにしたセミナーを行っていたことから、会社の貿易業務などの監査やコンサルティングがいいのではないかと考えました。現在はセミナーの他に、月極のコンサルティングフィーを頂き、何か困ったときに相談にのる、と言う外部顧問的なコンサルティング業務を提供しております。またスポットベースで、税関から通関に関する問題を指摘され、船積みが通関出来ない、と言うようなシチュエーションで解決策をアドバイス差し上げる、と言うような業務も行っています。
設立して丁度20年余りが経ちますが、趣味のギターや映画鑑賞、COVID19が落ち着いたら日本各地を旅行できるくらいの余裕があればそれでいいと思っています。勿論、頂いた仕事はきっちりこなしますが、あまり会社を大きくしようと言うような『大きな望み』などは持っていません。まぁ、元々学者タイプで、一日中デスクに向かっていれば幸せなタイプです。
タクシー強盗の一部始終 どうせ遭うなら「尊敬すべき強盗団」に
ーメキシコ滞在の中で伊藤さんが最も印象に残り、今回読者の皆様にもお伝えしておきたいというタクシー強盗の時の様子を教えてください。
伊藤氏:実際にタクシー強盗に遭遇したのはかれこれ26年くらい前になります。1994年暮れに起こったいわゆる「テキーラショック」の余韻が残り、人々は苦しい生活を強いられ、1週間に少なくとも 1回は銀行強盗が勃発する、と言う時代でした。1995年及び 96年は地下鉄の飛び込み自殺などもニュースで報道され、「この陽気なメキシコ人も自殺する事があるのか」と考えさせられた事を記憶しています。
そのポランコ地区で、ある平日の夜タクシーを捕まえました。丁度アパートを購入するためにそれまで持っていた車を手放した後だったので、通勤は地下鉄か、残業で遅くなった場合はタクシーを使っていたのですが、日本大使館や勤めていた会社が「流しのタクシーは危険なので使うな」と呼び掛けていたにも関わらず、無線タクシーを頼むと時間が掛かるのとタクシー料金も倍くらい高くなる為「まぁ、大丈夫だろう」と言う気持ちで流しのタクシーを捕まえたわけです。手を挙げてタクシーを捕まえた時に後にいた白色の自家用車も一緒に止まったので「なんか変だぞ?」とは思ったものの、仕事で疲れていた為か「まぁいいや。面倒くさい」と言う思いしか浮かびません。
ーもしかしてその後に、、、?
伊藤氏:そうです。タクシーが走り出してからほんの数ブロック行った所で信号もないのにタクシーが止まり、二人の男がどやどやと乗り込んで来ました。この二人は後ろから付いて来ていた別の車に乗っていたのですね。メキシコシティで当時多かったフォルクスワーゲンビートルのタクシーに乗られた方はお分かりでしょうが、ツードアの車なので助手席を取っ払ってあり、乗客は後部座席に座ります。この助手席のドアを開けて乗り込んで来た男たちが、乗客である私の両脇を固める形で後部座席を占めてしまいました。
ドアがばんと開けられた時に「やばい!」と思い、同じドアから男達を押しのけるようにして外に出ようとしましたが 2対 1では敵いません。更にこちらは狭いところで中腰で外に出ようとしているところを、向こうは上から押し付けるようにして車内に押し込めようとしている訳です。1対 1でもちょっと難しかったでしょう。
そこでなんと自己紹介が始まりました(笑)。
ーえ!そんな時に自己紹介ですか?ちょっと想像できません💦
伊藤氏:左側に座った男が「お前は尊敬すべき市民か?」と質問して来るので「当たり前だ」と答えると、「そうか。俺達は尊敬すべき強盗だ。言う事を聞いておとなしくしてりゃ命は助けてやる」との事。「尊敬すべき強盗なんぞあるのかいな?」と悔しくなりましたが、見るとこの男は刃渡りが長いナイフをちらつかせます。切れ味が悪そうなナイフですが、むしろ「こんな切れ味が悪そうなナイフで切られたら痛いだろうな」と思い、抵抗しても無駄だとあきらめました。
ー切れ味が悪そうなナイフということまで、そういった状況で考えられる伊藤さんに驚きです。普通は怖くてそんなこと頭の中で考えられません。そうしたことも思い付くくらい冷静でいないといけないですね。
伊藤氏:その時抵抗していたら、私の思う通りに痛かったでしょうね(笑)。その後は「お決まりのコース」です。持っていたブリーフケースは中身がひっくり返され、めぼしいものは取られ、勿論背広やワイシャツのポケットまで手が延びて来て財布から何から盗られました。背広の上着、ネクタイとベルトまで持って行きましたね。但し、人によっては靴まで盗まれた、と言う人もいるそうですから、私が出会った強盗団は比較的良心的なのでしょう。靴は盗られませんでした。
ここで面白いのは(?)、最初の内はナイフを持った男がタクシーの運ちゃんに対して
「おめーも騒いだりしたらただでおかねーからな!」とか言い、運転手の方も何がし怖がっていましたが、少し経つと演技をする必要もないと判ったのでしょう、実は運転手が他の二人(そして後ろに付いて来ていた乗用車の運転手)に指図していました。つまり彼がリーダー格なのです。
ー運転手さんが仲間になっているとは・・・
伊藤氏:クレジットカードも当然やられました。当時私は万が一の為に銀行が違うクレジットカードを2枚持っていましたが2枚ともやられました。暗証番号を教えろ、と言われ、仕方なく教えると、二手に分かれ、私とタクシーの運転手を含む強盗団 3名が乗ったタクシーと、後から付いて来た乗用者の運転手が分かれ、夫々の銀行の ATM に行き、現金が下ろされました。
一番面白かった(?)のはネクタイです。これは右に座った男が私の首からはずして持って行ったのですが、その時に左の男(ナイフを持った副リーダー格?)が「おめー、なんでそんなにネクタイなんか集めてんのよ?一体何本貯まった?」と聞きます。右の男は、「そうさなぁ。かれこれ 200本くらいにはなるかなぁ」とのたまわります。それを真中で聞いていた私は、「このやろー、ネクタイなんぞ使わないし選ぶ趣味もないくせにー」と正直思いました。私はまっとうな仕事をしていますが 200本のネクタイなど持った事がありません。
その後市内をぐるぐるつれまわされ、結局開放されたのが 11時過ぎだったでしょうか。このタクシーを捕まえたのが 9時ちょっと前だった筈ですから、2時間余り付き合わされた事になります。
ー2時間も!生きた心地がしなかったですよね。
伊藤氏:開放されたところは薄暗いダウンタウンの一角と言ったところでしょうか。街角にある標識で「コロニア・サンラファエル」である事がわかりましたが自宅に帰る方法が分かりません。地下鉄に乗るにしても一銭も持っていないのでは切符も買えません。
仕方なく流しのタクシーをまた捕まえました。「今度このタクシーの運ちゃんが強盗に早変わりしたらなんにも差し出すものがないので今度こそヤバイぞ」と思いながら・・・。結局、このタクシーの運転手はまともな運転手でちゃんと自宅まで送り届けてくれましたが。
それにしても強盗団のリーダー格の運転手には少々感謝しなければならないと思っています。
ー強盗団に感謝ですか?!何故ですか?!
伊藤氏:私はパスポートとメキシコのビザをいつもブリーフケースに入れて持ち歩いていたので、私は「あんた達にはパスポートとかビザとか全然用がないでしょ。しかし私にとっては大事なものなので、是非返してくれ」と彼らに懇願しました。しかし左に座ったナイフの男はブリーフケースごとその辺に捨てちゃえ、と言っていました。ところがリーダー格のこの運ちゃんは「おい、別に捨てる必要もねぇだろう。返してやれや。」と言ってくれた為、大事なパスポートとビザが入ったブリーフケースごと私の手に返されたのです。ですから、開放された時は背広の上着もなく、ネクタイやベルトもない状態で、しかし何故か大事そうにブリーフケースを抱えておろおろしてタクシーを捜している、と言う状態だった訳です。
同じ強盗に合うのであれば「尊敬すべき強盗団」に遭遇すべきでしょう。
ーなるほど、そういった意味で「強盗団に感謝」なんですね。出来れば強盗には合わないのがベストですがこうして今伊藤さんが語ることが出来るのも、強盗が「尊敬すべき強盗だった」からですね。
(後編に続く)
後編では伊藤さんが経験したタクシー強盗の話から、日系企業で働く人へのアドバイスなどを語っていただいております。是非、後編もご覧ください!
経歴:
1958年 東京生まれ。
1976年 都立文京高校を卒業後訪墨。
1977年 メキシコ国立自治大学(UNAM)経済学部入学
1984年 卒論終了、卒業試験合格、家内とともに帰国
1986年 メキシコ再訪
1987年 メキシコ住友商事入社、産業機械部、通信電子部、自動車部などを経て運輸部部長
1994年 Sumitrans de Mexico(住友商事物流子会社)設立とともに初代社長就任
2002年 Japan External Trade Consulting, S.C.(Jetrac)設立。以後社長を務める。
会社情報・お問い合わせ先
Jetrac(Japan External Trade Consulting, S.C.)
住所:Av. Del Rosal No. 47 - 4, Col. Molino de Rosas C. P. 01470 México, D.F.
Telefono : (55) 5660-6604
E-Mail: contacto@jetrac.com.mx