メキシコで頑張る方にインタビュー。第36回目で2022年最初のインタビューを飾っていただくのは、JIGYOU SUPPORT STRATEGYの滝本昇氏です。
メキシコ在住歴56年。読者の方の中でもそのお名前を聞いたことがある方や、お仕事でお世話になった方もいらっしゃるかもしれません。それほど滝本氏はメキシコの日本人社会に長年大きな影響力を与え続けています。
今回のインタビューは前編・後編に分け、前編では滝本氏がスペイン語を勉強したきっかけから、メキシコ在住56年の中で印象に残った出来事を語っていただき、後編では2021年の出来事や、日系企業がメキシコに進出するメリットやデメリット、2022年の抱負をお話しいただきました。
<目次>
外国に対する憧れから、スペイン語を勉強
MEXITOWN(以下MT):本日は宜しくお願い致します。滝本さんは上智大学イスパニア語(スペイン語)学科に入学したことが、メキシコと関わるきっかけでした。当時、スペイン語を勉強する大学生は多くはない中、スペイン語学科を選んだ理由を教えてください。
滝本氏:私は1941年1月生まれで、世の中は真珠湾攻撃から第二次世界大戦に突入した年です。3歳から5歳の時の、終戦前から終戦後の疎開地での記憶が鮮明に残っております。
1960年代になり日本は経済的に立ち直っていきましたが、まだまだ貧しい地域もありました。そんな中で、外国語を覚えておくと就職のチャンスが広がることと、外国に対する強い憧れがあり、上智大学を志望しました。
上智大学には当時英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語、スペイン語を学ぶことができ、英語の次に世界で話されているのがスペイン語であること、スペイン語を習得しておけばスペインだけでなく中南米も把握できる、発音がローマ字読みに似ていて綺麗な言葉という理由でスペイン語を選びました。私が大学に入学した当時はラテン音楽ブームで、マリアッチが来日したこともありました。東京オリンピックが開催されたころでしたから中南米からの旅行者も多く、その中でもメキシコ人の印象が一番良かったです。また、メキシコから来た高校生をアテンドし、彼らともスペイン語の練習をしていました。
MT:東京オリンピックで活気に溢れ、外国からの観光客も沢山来ていた光景が目に見えます。外国語を学ぶには絶好のチャンスでしたね。そんな東京オリンピックで日本中が盛り上がる中、メキシコに旅行に行ったことが、滝本さんの最初のメキシコの出会いになったんですね。
滝本氏:日本で知り合ったメキシコ人の友達にメキシコに来てみないかといわれて、思い切って行きました。今では成田空港からメキシコシティの直行便が就航していますが、当時はカナダ太平洋航空でアンカレジ→バンクーバー→メキシコシティという経路で何時間もかかっていました。
この国なら好きになれそうな気がする
MT:メキシコシティ空港に降り立った時の印象は今でも覚えていますか。
滝本氏:もちろん、今でも鮮明に覚えています。空港で通関を終えて、出口でマリアッチが演奏して歓迎してくれました。
MT:マリアッチが!?今では考えられない光景ですね。
滝本氏:話には聞いていましたが、いざ目の当たりにするとびっくりしました。通関手続きを終えた後も、どこからか私の名前を呼ぶ声援も聞こえました。その時のメキシコシティの空港の匂いも覚えています。どこの国でも、飛行機を降りた後のその国の匂いは独特ですね。
そんなマリアッチの熱烈歓迎に面喰い、空港からメキシコシティ市内の滞在先のホテルに向かう途中、車内から外を眺めてみました。当時の日本は木造の家が多かったのに対して、メキシコはしっかりとした家構えが多く、どっしりとした印象を受けました。
「こういう国なら好きになれそうだな」そう思いました。
メキシコに滞在中の3週間は色々な出来事がありました。
私はラテンアメリカ音楽を聴くことが趣味で、そのつながりで大学時代に知り合った友人であるラテンアメリカ音楽のトリオが、三船敏郎が撮影した「価値ある男」(スペイン語原題:Ánimas Trujano (El hombre importante)、1961年撮影のメキシコ映画)に出演し、三船敏郎と共演したからお土産を持って帰って渡してくれないかと頼まれました。日本に帰国した後、三船敏郎に電話をかけました。
上智大学にトリオが来た時の写真
MT:三船敏郎さんに直接電話をかけたんですか?今では俳優の方の電話番号に直接電話をすることは考えられないですね。
滝本氏:そうですよね、そんな時代だったんです。お電話をしたところ三船氏はそのトリオを覚えているとお話しされていて、私は三船氏の撮影現場まで行きトリオから渡されたお土産を私に行きました。三船氏は非常に喜んでいて、サインもいただきました。
そしてメキシコ3週間の出来事で、私のメキシコ滞在が始まるきっかけとなったのがイベロアメリカ大学への訪問です。ある日上智大学の姉妹校であるイベロアメリカ大学から3名、大学の創立50周年記念事業の一環として1年間交換留学生として来ていましたので、大学のキャンパスを訪れましたが、とても綺麗な大学でした。
彼らに誘われて当時の学長に会いに行き、学長から「君のスペイン語はとても上手だね。君も留学しに来ないか」と褒められ、その場で学長の秘書の方から渡された資料に名前と住所を書いて渡したら「それではまた会いましょう」と言われてその場を後にしました。
大使館からの突然の電話、いざメキシコへ!
その後日本に帰国し、日本ピグメント株式会社に勤めていた11月のとある日。突然メキシコ大使館から1本の電話がありました。
「なんであなたは大使館に連絡しないの!?あなたのビザはとっくに届いていているから、すぐにビザを取りに来てください!」
と怒られました。あの時、イベロアメリカ大学から留学の許可をもらい、自分の知らない間にビザが発給されていたことに驚きを隠せず、急いでメキシコ大使館へ行きました。
そして日本ピグメントを退職した翌年1965年、カナダのバンクーバーで大雪で足止めになりながらも1週間遅れでイベロアメリカ大学に入学しました。
MT:日本の大学とメキシコの大学の違いに衝撃を受けられたとか
滝本氏:それはもう衝撃の連続でした。メキシコの大学では生徒がたばこを吸いながら授業を聞いていました。授業の途中でも平気で食堂に行ったりしていましたね。また、大学4年間スペイン語をしっかり勉強したにもかかわらず、ネイティブの話すことが全然わからない。勉強してきたスペイン語との違いにショックを受けました。
また1科目でも単位を落とすと学生ビザが切れてしまうので、単位を落とさないように必死に勉強したこともよく覚えています。
MT:その後、留学時代に経験したアルバイトがまた滝本さんの今後に大きな影響を与えました。どのようなアルバイトをされたのでしょうか。
滝本氏:当時は為替管理法の関係で、今のように簡単に送金が出来る時代ではなく、1回の送金の限度が6,000USドルまででした。そのため、アルバイトを始めたのです。
まずは、朝日新聞でのアルバイトです。1967年にメキシコシティ・プレオリンピックの取材に同行し、刑務所を訪れたことです。また、その時にあるトリオを連れて、後に妻となる彼女の家に行き、演奏に行った、いわゆるセレナータをしたことも印象に残っています。もう1つは1966年に日産メヒカーナのモレロス州・クエルナバカ工場の立ち上げ直後の翻訳のアルバイトです。
日産メヒカーナのアルバイト時代で忘れもしない出来事—1968年のメキシコシティ・オリンピック開催時のことです。サッカーの試合でメキシコ対日本の試合がありました。当時日本にはプロのサッカーリーグがなかったので、誰もが日本が勝つとは思いませんでした。ところが3:1で日本が勝利し、メキシコ人の観衆の声援がMexico!が途中からJapón! と応援の声が変わってしまったのを覚えています。試合の翌日に出社したらメキシコ人の従業員は、皆さん下をうつむいていて、私の顔をまともにみてくれませんでした。彼らの人生にとってサッカーがいかに大事かを実感しました。
メキシコシティ・オリンピックは日本からも沢山の旅行者が来たので、その方たちの案内もしました。開会式がとても素晴らしく、メキシコはすごい国だというのを肌で感じました。
そして1968年、イベロアメリカ大学の同級生だった最初のメキシコ人の妻と結婚しました。
MT:その後、日産メヒカーナで文書秘書課長と取締役会会長管理補佐を5年間努められました。その時のエピソードをお話しください。
日本人は情報に飢えている、日系企業に役立つことがしたい
滝本氏:会社の通訳だけでなく、企業法務の勉強がとても大変でした。組合との労働交渉は、通訳の立場で出ました。また、当時国際労働機関(ILO)の理事で、日産自動車内で「塩路天皇」の異名を取るほどの権力があった塩路一郎氏が、ベネズエラのカラカスで行われるILOの地域大会に参加するために、私も2週間通訳で同行しました。
メキシコに塩路氏と戻ってきた後、当時のメキシコ大統領のルイス・エチェベリア・アルバレス大統領の就任式に呼ばれ、一緒に出席しました。その場で塩路氏に「新大統領に、メキシコはこれから小型車をもっと導入すべきである。燃費もいい小型車を日産は沢山備えているから応援してください と通訳してほしい」と頼まれ通訳し、大統領は非常に喜び、塩路氏と私にほんの1分間だけでしたが、ハグをしてくれました。
MT:そうした歴史的瞬間にも立ち会えたことは一生の思い出になりますね。その後、滝本さんは日産メヒカーナをご退職され、チャベロ・ヤマサキ会計事務所に入社されコンサルタント業務を始められます。
滝本氏:塩路氏がメキシコに滞在中、日産の正社員になるお話もいただきました。しかし、日産時代にメキシコのニュースを日本語に訳し、日本人の方に共有していたことがあり、「日本人は情報に飢えている」ことを痛感していたことや、企業法務のアドバイスを今後進出する日系企業の役に立つようになろうという想いがあったため、日産を退社しチャベロ・ヤマサキ会計事務所に入社しました。そこでは、企業法務・人事法務のセクションを新しく設立し、企業法務のアドバイスなどのコンサルタント業務を始めました。これが私の46年にもなるコンサルタント業務の始まりです。
1970年代後半はオイルショックが発生し、メキシコは産油国ということで日本の企業も大手企業が何社か進出しました。しかし、国営企業と合弁した日系企業は大変苦戦しました。メキシコのビジネスのことわからないだけではなく、メキシコ政府の色々な考えや情報が入ってこない。どちらにビジネスが動くのかなどもメキシコ側のスタッフから入ってこないなど、日系企業にとっては期待外れで、上手くいかず撤退する企業もありました。
メキシコ大震災直後の出来事
MT:1980年代になり、1985年9月19日にはメキシコ大震災が発生しました。
滝本氏:地震発生時、私は高校に入学したばかりの娘を載せて車を運転していました。メキシコシティのInsurgente通りの信号の手前で止まった時のことです。車ごと強い縦揺れを感じました。ただ、その後すぐに揺れは止まったので娘を高校に降ろし、会社に向かいました。しかし、会社に行ったら誰もいない。スタッフの1人が、
「大変なことになった、何十人も死んだ」
と話し、事の重大さに気付きました。私や私の家族は直接大きな被害はなかったのですが、色々な噂を聞きました。例えば、ホテルの部屋にいた時大きな揺れが来てトイレにかけこんだら、トイレだけは無事で部屋が落ちた、など…いろいろな話があって思い出せないくらいです。
情報網も完全に遮断されて、TELEXも電話も全然通じない。当時の三井銀行の方から連絡があり「留守家族に連絡しておきます、電話番号教えてください」といわれ、日本の家族に何とか無事であることを伝えてもらいました。
その時、諸外国からの支援も始まり、駐在員の方を通じて日系企業が「メキシコに救援物資を届けることができないか、交通機関がないならロバでいけ!」というくらい、ロバで行くのは半分冗談ですが、それくらい情報が錯綜していました。
地震発生日の2~3日後、事務所の若い弁護士の方の結婚式がありました。余震もまだ続く中結婚式を強行しましたが、出席者の顔が非常に暗かったことを覚えています。「ここで建物が倒れたらどうしよう」「あの場所で死人が出た」と話題は地震のことに集中し、お酒も提供が禁止され、ノンアルコール飲料のみの提供でした。
結婚式で音楽を演奏するバンドも来ましたが、全員元気がなかったです。バンドの1人が歌を歌い始めましたが、歌いだすと突然泣き出しました。彼の親族が亡くなり、歌える状況じゃなかったようです。
その後、2003年に最初の妻が孫の顔を見ることなく亡くなりました。悲しみに暮れる中、私を慰める会で偶然再会したイベロアメリカ大学時代の同級生の現在の妻と2004年に再婚しました。
後編 に続く
経歴:
滝本 昇
Noboru Takimoto
上智大学外国語学部イスパニア語学科卒業後、メキシコに渡航。1968年メキシコ、イベロアメリカ大学労務管理学科卒業。1968~1973年メキシコ日産社長の秘書役兼文書秘書課長、1976年から2015年11月までの39年間、法律事務所(Takimoto, Cortina, Farell y Asociados, S.C.)の代表社員を務める。2016年2月にJIGYOU SUPPORT STRATEGY社を設立。日系企業の現地法人設立、人事・労務管理、職場環境整備など多岐に亘るサービスを提供する経営コンサルタントとして活動する傍ら、様々な企業や団体の役員・監査役も務める。
1993年、平成5年度「経済協力貢献者賞(通産大臣賞)」を受賞。2017年、平成29年度「春の叙勲(旭日双光章)」を受章。2020年7月29日、メキシコ全国工業会議所連合会(CONCAMIN)より対日本代表に任命される。
主な役職歴・日本メキシコ学院元理事長、メキシコ日本商工会議所元副会頭、メキシコ全国工業会議所連合会現雇用生産性向上副委員長、日墨協会現幹事。
経歴出所元URL:https://jigyou.info/?lang=ja
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