約45年ほど前、グアナファト州に右も左も分からない1人の若者がやってきました。そこでメキシコ人の妻と出会い結婚しグアナファト州に住み、グアナファト大学でセラミック材料やアルミナやムライトといった研究を行い続け、グアナファト州に日系の自動車産業が栄える間接的な要因をもたらしました。
今回ご紹介するのは、グアナファト大学定年退職教授(理学博士)の杉田敏先生です。日系企業がグアナファト州に多く進出する何十年も前からグアナファト州に住み、グアナファト大学で長年教鞭をとられてきた杉田先生。日墨交流にも積極的に関わる先生の熱い想いをお話しいただきました。
<目次>
自動車関係の研究がもたらした成果
ー先生の生い立ちから今に至るまでをお話しください。
杉田先生:私は1955 年、戦後十年の時に奈良県大和高田市南の端、御所市と橿原市との境、どちらかと言うと新沢千塚古墳群の近くに位置し古風にこだわる大和の中でも用舎の古い農家の末っ子として育ちました。大学も少し時間はかかりますが、実家から通学できるごく普通の公立大学、大阪府立大学工学部応用化学科を卒業いたしました。
メキシコに来たきっかけや、長年暮らすことになった理由とも関係がありますが、グアナファト大学で仕事をしながら修士課程、専門は無機化学そして博士課程専門は無機材料・セラミックス材料アルミナやムライトを中心とした酸化物セラミックスの製造開発を研究いたしておりました。当時父の老若の心配であったことも大きな理由でしたが2001-2002 年には大学のサバティカルを利用して名古屋の産業技術総合研究所のシナジーマテリアルリサーチセンターにて自動車関係の新材料開発をテーマとしてポスドクを経験いたしました。
この自動車関係の研究ということがきっかけで、その後グアナファト州に日系自動車企業が殺到するという結果を間接的にもたらし、大学では化学を教える傍ら日墨学術交流を推進することに勤めました。長岡技術科学大学や広島大学を中心に学術交流を進めて行き、両大学と同時に学位を得ることの出来るダブルディグリー制度も確立いたしました。日米墨技術推進評議会を創立し、3カ国間の学術交流が盛り上がるのを進めていたのもその当時でした。まだ当時としては長岡技術科学大学と日本政府の学術交流推進プログラムのおかげで珍しいテレビ会議システムを導入してして頂きその利用によって、学校間のコミュニケーションをはかりました。既に2015年に定年退職いたしましたが、大学とは現在でも機会があるごとにちょっかいをだしております。
テレビCMがきっかけでメキシコに
ーメキシコに来たきっかけ・長年いることになったきっかけを教えてください。
杉田先生:やはり最初のきっかけは1977 年大学で卒研をしていた当時にさかのぼると思います。当時世間では少し就職難も騒がれておりましたが、私は家族のコネを利用して大手の建設会社に入社することが内定しておりました。今でもはっきりとその日のことは覚えておりますが、ある週末の午後何気なく見ていたつまらないテレビ番組にて小さな薬会社なんでもない広告が印象的でふと自分の人生に疑問を抱きました。
このまま時代に流されてゆくのだろうか
翌日父の背広とネクタイを借りて、何を思い立ったのか大阪の平野道修町にあるその薬会社を訪ねておりました。
入社を希望していますと何の前置きもなく事務に挨拶すると、不思議なことに社長自ら対応してくださって、「残念ながら当社では新社員の要請をしておりませんが、私の所属する薬剤組合に全く有名でないが小さな企業があります。そこの社長が私に、実は外国に進出するために新入社員が必要であると話していましたよ」とつたえられました。良ければ今電話で聞いてみるが如何ですかとの質問に、どうかお願いします!と即答し、やはり募集をしているようで良ければ親友なので社長も今から同伴するからすぐ近くにあるその会社を訪問することになりました。
即面接試験なども行われ、最後にもしここに入社すればメキシコに今建設中の子会社に出向することは可能ですかとの問いに、「どうして断る必要があるのですか」と答えておりました。その場で内定が決まり、その翌年4月に入社してから3ヶ月内でメキシコに来ることになりました。
当時メキシコという国も知らず、ましてグアナファト州の小さな全く日本と関係のないイラプァト市に今まで住む事になるとは夢にも思っておりませんでした。社内で薬剤師の妻とめぐり合い結婚をしたのはそれから3年弱の年でした。仕事は順調でしたが「何か自分の構想していた人生とは違った方向に進んでいる」と思い始め、その年にはもうほかの事を考えておりました。
そして、グアナファト大学から研究員として雇いたいというオファーがあり、その中にはその後修士と博士は大学に勤めながらとるという約束で承諾しておりました。1年は元の会社を辞めることを会社から断られ、大学に通勤しはじめたのは1982年からです。30年勤めて定年退職の権利を得てからも3年ほど大学の総長を手伝うために就任しておりましたが、2015年に総長が退いたこともあってその年に退職いたしました。
グアナファト大総長と広島大学先生のマツダ本社訪問金井会長 (2012年)
官民一体で子どもたちを貧困から脱却させてほしい
ー長年グアナファト大学で教鞭をとられてきた先生ですが、グアナファト州はここ数年で
大きく変わったと思います。先生から見たグアナファト州の変化をお話しください。
杉田先生:当時グアナファト州は貧しい民が多く、メキシコの中でもアメリカへの不法移民を生み出している悪評の高いランク付けの中でも上位を占めて、それを改善するために州内に外国企業の進出幹旋して工業化が大きく進みインフラもかなり整備されました。
しかし既に早10年近くになりますが、多分何かの間違いと思いますが自動車での通勤中に私自身、誘拐未遂に遭遇しました。当時州政府に強く保安を充実して欲しいと要請しましたが、日増しに悪化しているようです。個人としてはやはりこのような問題は底辺を強くしないとだめだと思っているので、やはり教育並びに衛生・保健に今後も力を入れて本当に住みよい町を作っていって欲しいと思っております。
私の娘が州の衛生局に勤務していますが、子供たちの健康状態を官民一体となり、貧困状態になったり、非行や麻薬に走らないようなプログラムを作ることが重要だと話していました。
グアナファト州はどなたにもオープンな州です。自動車産業が栄え、様々な産業が伸びていきました。その中で地球と人生に優しい街づくりをしてほしいと願っています。
サバティカルの時期に過ごした愛知県・長久手町(現在の長久手市)のような日本の中でも一番住んでみたい素晴らしい町というところにしていって欲しいです。そのためにも教育機関、衛生網に企業もどんどん参加してもらって住みよい街づくりをしていって欲しいです。
長岡技術科学大学にて(2010年)
シナジーを交流の中で生み出すことが重要
ーグアナファト日本人学校の理事、支倉常長400年記念に関わるなど、日墨交流につきま
しても尽力されています。日墨交流に対する先生の想いを教えてください。
杉田先生:わび・さびが解るメキシコ人ものづくりから学べる伝統も生かした新しい街づくり。そのためにも学術交流から生まれたダブルディグリーなど利用して持続可能な産業並びに社会作りを日墨共同で進めていって欲しいです。
例えばですが、イラプアト市はいちごの産地として有名です。日本のいちごは甘くておいしいので、そうした日本の技術をメキシコ人にも知ってもらい、イラプアト市を更に盛り上げていく。そして、日本人の学生の方もイラプアト市のいちご栽培を知ってもらうことで、お互いの交流を深めていく。一方的に技術を教えるのではなく、シナジー(共生)を交流の中で生み出し、win-winの関係を構築することが大切です。
メキシコも日本も、各自治体でそれぞれお互いの文化を広めるための活動を多く行っています。しかし、その活動の横の線が結ばれていないような気がします。これは日本側に至っては日本の機関が主体的に動いでいくことが求められています。各機関の国際課でなくても、スポーツ、農業、衛生などどこでも構いません。必ずどこかメキシコと交流してみたいと思う機関が出てきますし、現実的に思っているけれどどうしたらいいか分からないと考えている方が多いと思います。
メキシコ・日本のどちらの大学でも学術協定を多く締結していますが、実際締結だけで終わってしまい、交流が途絶えたり活発ではないケースもあります。そうではなく、締結を結ぶ際、具体的にどのような学術交流をしていくのかを真剣に考え、時には大学だけではなく企業・行政などを巻き込んで、恒久的な関係性を築いていくことが不可欠だと思います。
日本人学校や州の教育機関と協力し合って共生に励んで欲しいと願っております。私が理事を務めている日本人学校には、教育機関という役割だけでなく、地域の方に日本文化を知ってもらうための場所にもなってほしいです。日本人のための日本人学校ではなく、メキシコのいいところも悪いところも学びながら、地域の人々と一緒に子どもたちが成長してほしいです。グアナファト大のキャンパスも近くにあるので、グアナファト大の生徒との交流も実現できたらなと考えています。
在メキシコ日本国大使館・小野大使(当時)と(2010年)
ーそんな日墨交流に強い想いを寄せる先生ですが、例えば今後、メキシコと日本が姉妹都市を提携するなら、どの都市が面白いと考えてますか。
杉田先生:姉妹都市提携はそれぞれの都市の共通点や学術・産業交流があることがほとんどですが、私はあえてメキシコとは正反対の特徴を持つ自治体とメキシコの都市が提携したら面白いんじゃないかと思います。
例えば、私の出身地である奈良県。奈良県は日本の始まりともいえる土地であり、日本のわび・さびを重んじ、古風な文化が根付いている土地です。メキシコの陽気な雰囲気とまさに正反対の性質を持っていますが、お互いが相反する文化を理解し、そこから何か共通点を見つけていくのも面白いのではないかと思います。奈良県には古墳が沢山ありますから、古墳とピラミッドの違いを見つけたりできそうですね。
つまらない事でも何かきっと役に立つこともある
博士号授与(2000年)
ー最後に、今後の若い世代の方へのメッセージをお願いします。
杉田先生:
常に夢を追いかけ
危機を機会に変え
つまらない事でも何かきっと役に立つこともある
レジリエンスを育成し
考え方を時々根底から変えて試る
全く無駄なことの中から活路を見出せることも良くある
常に人生のプロジェクトを実行し
プランをそのつど適正化し
シナジー効果を探し
自分の人格を作ることを考える
人生を楽しく
各自クォリアがありそれぞれ感じ方は違うが世の中の流れを考えて判断する
一日一日を大切に生きる
です。
経歴:
Satoshi Sugita 杉田 敏
1955年奈良県生まれ。大阪府立大学工学部応用化学科卒業。
1982~2015年 グアナファト大学教授
1997~1998年 ITESMイラプアトキャンパス教授
2005~2015年 イラプァト工科大学ITESI教授
2002~2020年 PROCEMEX コンサルタント
2014~2017年 UBSA コンサルタント
2015年~ グアナファト大学定年退職教授
2019年~ グアナファト日本人学校理事
編集後記
未だ日系企業が多く進出する何十年も前からグアナファト州に住み、街の成長を見続けてきた杉田先生。それだからこそ、グアナファト州の発展と日墨交流にかける想いは誰よりも強くあります。特に日墨交流については、相反する各自治体が交流するのも面白いのではないかという、新たな発想を頂きました。この記事をご覧になった日本の自治体の方が、「それだったら私達も是非!」と手をあげてくださるのを期待しています。
最後の若い世代の方へのメッセージを詩のような形式でいただき、先生の文才と教養の高さを感じました。テレビ広告というたった数秒がきっかけでメキシコに来たという大きな決断をした先生だからこそ発信できる強いメッセージでした。
執筆者紹介:
温 祥子(Shoko Wen)
MEXITOWN編集長兼CEO。メキシコ在住5年半。MEXITOWN立ち上げて今年で3年目に突入。これからも様々なジャンルの方をインタビューしご紹介していきます!趣味は日本食をいかにメキシコで揃えられる食材で作ることができるか考えること。日本人の方が好きそうな場所を探し回ること。