今回のインタビューは、長年三井物産でご勤務され、2021年に外務大臣賞を表彰した田北坦氏です。
現在のソウルからご家族と引揚げされ日本に来た田北氏。その後どのような経緯でメキシコに来ることになったのか。また、そこで起こった出来事は一体どのようなことがあったのか。そんな田北氏の57年間のメキシコ生活を振り返っていただきました。
<目次>
終戦後、家族と共に日本へ引揚げた
ー本日は宜しくお願いします。田北さんは1940年、京城(現在の韓国・ソウル)にご誕生されました。
田北氏:こちらこそよろしくお願いします。そうです、私は1940年父親の仕事の関係で家族が京城に住んでおり、そこで産まれました。まだ韓国が日本領だった頃で、父親の会社の本社が京城にありました。その後1945年に終戦を迎え、私も家族と一緒に日本に引揚げてきました。後から知ったことですが、その当時の日本の人口は約7000万人(注1)。そこに私たち家族のような引揚げの日本人がおよそ600万人。翌年の日本の人口の1割強が海外からの引揚げ者になりました。
その後、父親以外の私たち一家は父親の実家のあった山口県萩市に移り住みました。父親はまたソウルに戻り、満州(現在の中国)からソウルに逃げてくる人達を助けるために待っていたそうです。その後無事父親も日本に帰国し、山口県萩市から長崎県へ。その後、埼玉県秩父の鉱山のある山の中に小学校3年まで、4年生の時東京に移り、中の区立北原小学校、5年生から移住により新設された中野区立若宮小学校に通いました。戦後新しく開校された小学校で、私は第1期生になりました。
小学校を卒業し、慶応義塾中等部・高等部に入学し、慶応義塾大学・経済学部に入学しました。中等部の3年間と大学の2年間は東京都港区・三田、高等部と大学の最初の2年間は日吉でしたので、三田で5年間、日吉で5年間の合計10年慶応で勉強しました。大学では柔道部に所属し、柔道に打ち込んだ青春時代を過ごしました。それがのちに日系二世である妻と出会うきっかけとなりました。
奥様との出会いがきっかけで証券会社を退職後、メキシコへ
丁度その当時、慶応義塾大学には当時ラテンアメリカ研究会があり、来年メキシコ訪問する予定との話で後に妻となるメキシコ二世の女性をスペイン語の教師として紹介した経緯がありました。
1963年に大学を卒業後、山一證券に入社しました。1964年は東京オリンピックが開催され、日本国内は非常に高度成長経済期の活気に溢れていました。1965年に後の妻はメキシコに帰国、私は同年3月山一證券を退社し、同年9月メキシコに行きました。
ー一流企業に入社してすぐにメキシコへの渡航は当時、ご両親からは反対などはなかったのですか。
田北氏:それほどの反対はありませんでしたね。でも、ご存じの通り山一證券は1997年に経営破綻しましたので、その時の私の判断は間違っていなかったといえます。続けて山一證券に勤務していたら、メキシコに行くこともなかったかもしれませんね。
ーそしてメキシコにいざ奥様と渡墨。田北さんはスペイン語の予備知識が全くない状態で行かれました。
田北氏:妻が日本語を少し話せたので、とても頼りにしていました。でも、山一證券を退社したものですから、私は無職でした。妻は1968年に行われたメキシコオリンピックの日本選手団の通訳をしていた間、私はメキシコ国立自治大学(UNAM)でスペイン語の勉強を始めました。ただ、午前中のスペイン語の授業の後は時間があるので、そこで仕事をして何とか稼がないといけない・・・そこで選手団の通訳で妻がとあるホテルに出入りしていたので私も一緒にいたところ、そこでの出会いが今後の私を変えました。
「君、現地使用人としてうちで働かないか?」
そう声をかけてくれたのが、三井物産の社員でした。そこから私の三井物産での変則サラリーマン生活が始まりました。現地使用人として10年間、働いていました。
波乱万丈の変則サラリーマン生活、スタート
ー現地使用人、今では殆ど聞かない単語ですね。入社後、どのようなお仕事をされたのでしょうか。
田北氏:三井物産の重機械部という、製鉄所を建てる部門に配属になりました。当時、スペイン語に慣れている商社は少なく、スペイン語が出来る事は非常に重宝されました。入社後でわけもわからずとりあえず歩いていたらお客さんを見つけてプラントを売ることが出来たという感じです。
ーいやいや、とりあえず歩いていたらお客さんを見つけただなんて(笑)田北さんの能力が高く、色々な偶然が重なって成約したのだと思います
田北氏:ありがとうございます。ミチョアカン州のラサロカルデナスに新設された製鉄所向けのプラント売りや、モンテレイやモンクロバにあった既設の製鉄所の増設や近代化のために、設備も売ってきました。
戦後の商社は敗戦の痛手から、何となく元気がなかった。そこに製鉄所にプラントを売ることに私が携わることが出来た。少しでも日本経済の復興に役に立てたと思うと今でも自分が成し遂げたことに誇りを持っています。
そうして現地使用人として採用されてから10年後の1977年、三井物産の本社採用となりました。その後、1978年から1990年まで三井物産の東京本社で勤務しました。メキシコから日本に戻った形になりますが、その当時の東京本社の方には非常によくしていただきました。
日本人社員を必ず助け出したい、それだけを考えた6か月間
ー日本本社では10年ほど働かれていました。そしてその時、田北さんが最も苦労した出来事が起こります。
日本本社で働いていた1985年、私にとって最も苦労した出来事が起こりました。メキシコ三井物産の日本人2人が逮捕され、本牢獄に収監ました。これは大変だということになり彼らを釈放するために交渉しに行かなければいけないということで、私は約6か月間メキシコに戻ることになりました。実際に彼らが収監された牢獄にも足を運び、彼らが冤罪であることを裏付けるためにもしっかりと話を聞きました。結果、無事無罪を勝ち取ることが出来、彼らも釈放されました。その時に感じたのは、メキシコの司法は裁判官のレベルも低く、時間もかかる事ということ。実務者もしっかりと管理していなかったため、こうした交渉事の難しさを痛感した事件でした。
様々な役職を通して多くの日系企業の関係者と交流
その後、1989年12月末に、メキシコ三井物産の機械部長として二度目のメキシコに行くことになりました。2年後の1991年にはメキシコ三井物産の社長に就任し、その頃からメキシコに進出している他の日系企業の方とも交流を持つようになりました。メキシコ日本商工会議所では1992年に幹事、1993年に副会頭、1994年に会頭も経験しました。その時は今ほど会員企業も多くなかったですね。その後、1994年には日墨学院(Liceo Mexicano Japonés)の理事長、日墨協会の副会長を努めました。こうして色々な役職を通して、多くの日系企業の関係者の方と交流が持てたことは今でも大切な思い出の一つです。
そんな時ある日突然、経済協力貢献者賞(通産大臣賞)を受賞しましたというお知らせが入りました。こんな私が受賞できるのかと大変驚いたことを今でも覚えています。
現地使用人から始まった私のメキシコ就労ですが、1999年三井物産本社の理事に就任しました。すでにこの時私は60歳を超えていました。
この頃から、このまま三井物産の理事としているべきか・・・それとも、何か違うことをやってみようか。そう思い始めました。
同年三井物産の本社を退職し、機械部門の子会社の社長となりました。そこでメキシコ支部も設立しました。2002年の定年まで子会社では働きました。
カフェテリア茶席で、美味しい日本食を提供
ーそして退職後、茶席をオープンされました。
田北氏:2002年11月に当時の三菱商事のビルの1階が空いていたことを聞き、何かできないかと思い茶席というカフェテリアをオープンしました。今でこそメキシコシティは沢山の日本食レストランがありますね。でも、2000年頃までは日墨会館内のレストランなどしかなく、土日のどちらかは日墨会館で日本食を食べる事が唯一の楽しみでした。今のように東洋フーズなどのような日本食材店もなかったので、妻がお豆腐などを一から手作りするような時代でした。そうした背景もあり、日本食を提供するカフェテリア・茶席をオープンしました。その後移転もし、日曜日以外は毎日お店には必ずいましたが、近年私と妻の体力的なことを考慮して、2022年2月で茶席を閉店させました。お店にはメキシコ人の方が多かった気がします。
日本人にとって一番古い外国、メキシコ。積極的にメキシコ人と交流してください
ー田北さんはメキシコに来られて今年で57年となります。これまでの人生を振り返った上で、今現在メキシコにいる在留日本人の方へのメッセージをお願いします。
田北氏:時代も変わりましたね。今では日系企業の進出数は1,300社(注2)ほどですが、その多くがメキシコシティではなく、グアナファト州・レオンなどをはじめとしたバヒオ地域です。
歴史的に見ると、メキシコと日本は1600年代から長い交流があるにも関わらず、南米の方が移住者が多いということもあります。こうした長い関係があるわりにはまだまだ日本人の中でのメキシコのイメージは決していいものとは言い難いです。今では成田からメキシコシティからの直行便もあり、以前と比べてより旅行もしやすくなったので、勿体ないです。もっと来てください!そしてもっと日本の方がメキシコを知っていただけるよう、色々な方法で宣伝してもらいたいですね。MEXITOWNさんも、頑張ってくださいね!
また、現在メキシコ人との関係で悩んでいる人へ。メキシコで言われている日本人の評判は決して悪くはないです。もう少し日本の方もメキシコ人と親しくなり、文化的な交流も積極的にしてください。
メキシコ人は一般的にとても愛想の良い方が多い印象です。よそ向きの顔をして本心が見えないと悩む方も多いと思いますが、「メキシコ人はだからダメなんだ」という考えはとってください。中には非常に尊敬できる素晴らしい人格のメキシコ人もいらっしゃいます。
世界的な国際関係から見ても、日本とメキシコの外交関係はとても良好です。日本人にとって一番古い外国”メキシコ” ーもっと仲良くやっていきましょう。
ーMEXITOWNにまでメッセージをいただき、ありがとうございました。
経歴:
田北 坦 (Hiroshi Takita)
1940年 ソウル生まれ
1963年 慶応義塾大学経済学部卒業
1963年 山一證券入社
1965年 メキシコ三井物産 重機械部
1977年 三井物産東京本社
1989年 メキシコ三井物産 機械部長
1991年 メキシコ三井物産 社長
1992~1994年 メキシコ日本商工会議所 幹事(1992年)、副会頭(1993年)、会頭(1994年)
1994年 日墨学院(Liceo Mexicano Japonés)理事長
1994年 日墨協会 副会長
1997年 経済協力貢献者賞(通産大臣賞) 受賞
1999年 三井物産東京本社 理事
2021年 令和3年度外務大臣賞 受賞
注1:国土交通白書 第I部 人口の減少、少子高齢化の進展など人口構造の変化に対応した国土交通行政の展開 第1章 人口構造の変化の動向 第1節 我が国と世界の人口の動向
注2:出所:外務省『海外進出日系企業拠点数調査』2020年調査結果
編集後記
3月下旬、ハカランダが咲き乱れるメキシコシティ。少々汗ばむ陽気の中、緑の遊歩道前のご自宅に焦って到着した私を、温かくご自宅前で出迎えていただきました。「日本人の方は時間よりも早く来るから、煙草吸って待ってました」と笑いながらご案内頂きました。日系2世の奥様も非常に気さくで、「それもう何回もリピートしているじゃないですか」と田北氏に話しかけるなどご夫婦の掛け合いも面白く、インタビューは終始テンポよく進みました。
ご自身のノートに年表形式でその時代に何を経験したか・どういう役職に就いていたのかしっかりと書き込まれていました。そのノートはMEXITOWNの今回のインタビューのために纏めていたとは思えないくらい、年期が入っていました。それを読みながら一つ一つゆっくりと語っていただいた変則サラリーマンのお話。”たまたま歩いていたらお客さんを見つけた”とお話しされていましたが、おそらく我々の想像以上のご苦労があったはずです。
変則的サラリーマンとしてメキシコで長年商社マンとして働いてきた田北氏だからこそ、最後の読者へのメッセージは心に刺さるものがありました。これからもメキシコと日本の友好関係がより良いものとなるよう、個人個人が意識していくことが大切だなと実感しました。