今回は上智大学外国語学部イスパニア語学科の名誉教授・高山智博先生の記事です。先生は1937年に生まれ、今日メキシコで活躍されている方々に大きな影響を与えてきました。生い立ちの戦前から戦後、大学時代とメキシコでのお話しなど、貴重なお話しを頂きましたので、是非ご覧ください。
<目次>
縁故疎開
1937年(昭和12年)、東京・神田の生まれ。1943年夏、国民学校1年の時、米軍の空襲が激しくなるからと、赤城山麓にある群馬の伯父の家に疎開させられた。
そこは二階建ての大きな家で、二階では蚕を飼っていた。一階の囲炉裏のある部屋では伯父が上座、家族と私は下座に座った。食事の際、伯父の料理の数はいつも一品多かった。農家なので飢えを感じることはなかったが、米は軍隊に供出していたので、クズ米と麦の混じったご飯を食べた。それに味噌汁と漬物。ご馳走は伯母が作るうどんだった。
疎開先では、生まれたばかりの赤ん坊の子守をさせられた。家にいる時はいつもその子をおぶっていた。楽しい思い出といえば、近所の子供と土手や小川で遊んだことくらいだ。
地元の国民学校では、校長の訓示の後、生徒たちは上半身裸になって乾布摩擦をした。終戦直後、校庭に不発弾が集められた。ある生徒がそれに触れたため爆発し、彼は即死。その破片が私の足元に突き刺さった。まさに間一髪、助かった。
1945年の3月10日と8月15日のことはよく覚えている。
3月10日の東京大空襲は疎開先の防空壕で見た。空全体が真っ赤に染まり、この世が終わるのではないかと思った。しかし恐怖心は湧かず、地上最大のスペクタクルを見ているような気がした。
8月15日の玉音放送は近所の大人たちに混じって聞いた。しかし話の内容は分からなかった。後になって日本が戦争に敗れたと教えてもらった。
戦時中、鬼畜米英と教わっていたので、米軍が進駐してきたら、殺されると思った。そこで殺される前に自殺しようと、遊び友達と死に場所を捜しに行ったことを記憶している。
それから少し経った頃、原っぱを歩いていたら、どこからか並木路子が歌う「りんごの唄」が聞こえてきた。その瞬間、それまでの重苦しい空気が消え失せ、周囲がパッと明るくなったような気がした。この歌によって、私は世の中がかわったことを実感した。
縁故疎開は我が人生の原点だったと言えよう。
戦後社会
1946年2月、私は神田の実家に戻った。満員列車から見た下町一帯は焼け野原だった。今もその情景が脳裏から離れない。神田駅の高架ホームに着いて、まず目に入ったのは、日本橋の三越、宮城、そして富士山だった。幸いにも我が家のある一角は焼け残った。
駅前には闇市が立っていて、その雑踏の中に戦地から戻ってきた傷痍軍人の白衣姿もあった。この時、人前で日本人を殴っている米兵を見た。しかし誰も見て見ぬふりをしていた。こうした事態になったのは、日本が戦争に負けたからなのだ。
戦後間もない頃は、宮城のお掘で魚釣りをしても咎められなかった。家から釣竿とバケツを持ってお堀に行く途中、鉄条網で囲まれた米軍基地の前で、米兵からチューインガムを貰ったことがある。魚が釣れたかどうかは覚えていないが、鬼畜米英と聞かされてきたアメリカ人は鬼ではなかった。
当時は大変な食糧難だった。近くの食堂で列に並んでやっと食べたものが、米も野菜も殆ど入っていない重湯に過ぎず、しかもすごく不味かった。アメリカ産のトウモロコシで作ったセンベイも、硬くて、味が殆どなかった。多分、家畜用のトウモロコシだったのだろう。その頃、ヤミ米を買わずに、配給だけで暮らして栄養失調で死んだ校長先生の話を聞いた。しかし貧しかったが、平和なので、世の中は暗くなかった。
楽しかった思い出もある。有楽町の日劇で観た歌手の笠置シズ子と喜劇俳優のエノケンの舞台だ。私が疎開で世話になったからと、親に連れられて、群馬から出て来た伯父といとこと一緒に行った。
「東京ブギウギ リズムウキウキ 心ズキズキ ワクワク 海を渡り響くは 東京ブギウギ」。笠置シズ子が派手な身振りで唄う姿は今も脳裏に浮かぶ。
二人の賑やかで楽しい舞台に圧倒されたからだろう。図画の宿題で描いたのが、この時の笠置シズ子とエノケンの似顔絵だ。学校に提出したあの絵が、その後どうなったか、長いこと気になっていたが、とうとう戻って来なかった。
その後、国民的人気を博したのが歌手の美空ひばりだ。彼女主演の映画「悲しき口笛」を三越劇場で身動きもできないような満員の中、やっとの思いで見た。私はひばりと同じ歳なので、余計に興味があったのかもしれない。
小学5、6年の頃、未知のものに対する好奇心が旺盛になった。近所の児童図書館に行って、様々な本を手当たり次第読んだ。その中で印象に残ったのが、ギリシャ神話である。他方、外国切手の収集に興味を持ち、貿易会社などを巡って、使用済みの切手を貰ったこともある。外国に憧れはじめたからだろう。その頃流行った歌謡曲が岡晴夫の「憧れのハワイ航路」だ。
私は少年時代に、戦中・戦後という全く違う二つの日本を体験した。これが我が人生における最大の出来事だった。
経済復興
水泳の古橋広之進が、1949年の全米選手権で世界新記憶を樹立した。この快挙は意気消沈していた国民に自信と希望を与えた。翌年、私は神宮プールで開催された日本選手権で、彼の勇姿を目の当たりにした。
1950年、野球で知られた中学に入学した。その頃、熱烈な巨人ファンだったので、読売新聞社のファンクラブに入って、選手のサインを貰ったり、後楽園で試合を見たりした。川上哲治などが活躍した時代である。
中学では、野球部への入部希望者が多かったため、校庭で遠投のテストが行われた。私もボールを投げたが、遠くに飛ばせず、不合格になった。そこで野球は諦め、講道館で柔道を習いはじめた。それから4、5年、熱心に練習した。道場の少年部に来られた三船久蔵十段の乱取りの相手に選ばれたこともあった。また槍ヶ岳や穂高に登ったことで、山好きになった。しかし途中から登山と旅は単独行にかわった。この方がマイペースで歩けるし、人との出会いも楽しめるからだ。この頃よく、「山のあなたの空遠く、幸いすむと人のいう」とカール・ブッセの詩を口ずさんだものだ。
さらに安カメラでの撮影にも興味を持った。エデット・ピアフの「愛の賛歌」を唄う越路吹雪が人気だったので、その舞台を見るため日劇に行った。私が撮った写真の最初の一枚が、その時の越路吹雪である。
1952年から54年にかけて、NHKのラジオ放送「君の名」が日本中を熱狂させた。このドラマの筋は、東京大空襲の夜、焼夷弾が降り注ぐ最中に出会った男女が逃げ惑いながら、数寄屋橋にたどり着く。二人は名も告げず、この橋で再会することを約束して別れるというもの。その舞台となった数寄屋橋にも写真を撮りに行った。その橋も、下を流れる川も、今はもうない。
高校3年の時、ある年配の教師が我々の進路に関して、「人がやってないことをやるべし」と語った。この一言が私の胸に突き刺さった。
上智大学
高校時代、わが国ではアルゼンチン・タンゴがブームであった。その名曲の一つに「アディオス・パンパ・ミア(さらば草原よ)」がある。そのパンパがなぜか別天地のように思えた。さらにそこでの牧場暮らしを夢みて、親にも告げずに、アルゼンチン大使館に出向いた。その時、大使館員から「スペイン語はできるか」と聞かれた。「できない」と答えると、「スペイン語を学んでからにしなさい」と諭された。
そこでスペイン語の講座がある上智大学に入学した。この大学がキリスト教系大学であることにも魅かれた。それは戦前の皇国史観とは違う世界観を求めていたからもしれない。しかし第一印象といえば、大学食堂で食べたハンバーグ。値段は25円。世の中にこんなに美味いものがあるかと感動した。
当時、上智大学は男子校だった。教師の多くがイエズス会士であり、彼らはローマン・カラーの詰襟に黒服、学生も黒い制服姿だったので、大学全体が何となく暗い感じだった。
我々は文学部外国語学科イスパニア語(つまりスペイン語。この用語の使用は<昔、日本ではイスパニアという言葉を使っていたので、この語を復活させたい>というスペイン人教師の意見で決まった)専攻の2期生。受験者数が少なかったため合格したような連中で、しかもアルバイトを必要とする貧乏学生が多かった。それでも皆が夢を持っていたように思う。
その頃、課外活動の一つスペイン語文化研究会が発行した新聞に、「最近中南米では日本の若者、それも彼の地を第二の故郷と目し、建設の意欲に燃えた、そして教養のある青年を待っている」という記事が載った。言うまでもなく同期の多くが、ラテンアメリカへの移住、ないしは企業からの派遣を望んでいた。
ただ私だけが留学志望だった。その理由はウィーン大学のロベルト・ハイネゲルデルン教授の「アメリカ大陸の古代文明の発生には、アジアからの影響があったのではないか」という仮説に興味を持ったからだ。1957年のことである。それで調べて見たいと思ったのが、アジアの龍とメキシコの羽毛ある蛇(ケツァルコアトル)の比較である。どちらも水に関連した空想上の霊獣で、しかも天に昇るからだ。しかし日本にはそれに関する資料がなく、専門家もいなかった。
上智ではこの年、女子学生の入学を認めるか否かで、学生投票が行われた。その結果、賛成多数で女子の入学が認められ、1958年から女子が徐々に入るようになった。イスパニア語専攻も外国語学部イスパニア語学科にかわった。
その年、東京大学は、ペルーを中心に栄えた古代アンデス文明を研究する調査団を派遣した。そこで私は日本人の誰もやっていないマヤ・アステカといったメソアメリカ古代文明が栄えたメキシコに留学したいと決めた。1960年、幸いにもその希望が実現した。
1964年、その留学から帰国すると、上智では女子学生が増えていて、雰囲気ががらりと明るいものになっていた。
恩師たち
上智大学時代に世話になった恩師たちを紹介したい。
まずはフランツ・ボッシュという名のドイツ人神父。我々イスパニア語専攻の2期生には粗野で奔放な連中が多かったので、真面目な他の上智大生とは違うと異端視された。そこでボッシュさんが我々のために、「公教要理」というカトリックについて学ぶ会を開設してくれた。ボッシュさんは<愛>を強調した。神の愛についてだが、その頃の若者は愛という言葉に全く慣れておらず、その言葉を聞く度に、愛欲を連想して恥ずかしい気分になった。
学生指導部長でもあったボッシュさん(学生からは親父と呼ばれていた)は日夜、学生のために尽力した。しかし1958年11月、心臓麻痺で急逝した。それがあまりに突然だったので、大学中が慟哭した。カトリック墓地に土葬された。私も祈りながら、遺体に土をかけた。これで上智の一つの時代が終わったと感じた。
2人目はフランス人のポール・リーチ神父。ボッシュさんの「公教要理」を引き継いでくれた先生だ。「落語が好き」と話していたので、聞く方の日本語は大丈夫だったのだろう。しかし話す方は殆ど理解不可能だった。覚えているのは、サルトルとか、実存主義とかいった言葉くらいだ。ともかくリーチさんのユーモアのある、そして誠実な人柄に私は惹かれた。
そのリーチさんが、1995年に亡くなられた。「死とはこんなにあっけないものか」というのが、最期の言葉だったと聞いた。
3人目は我らの兄貴と呼べるコロンビア人のファビオ・ビジェーガスという神学生。彼がクラス担任として、ボッシュ神父の「公教要理」の会を準備してくれたのだ。
1958年5月、ビジェーガスさんが精神的な病で帰国することになったと聞いた。そこで我々は慌てて羽田空港に駆けつけた。しかし少しも病人のようには見えなかった。この年の4月からイスパニア語専攻がイスパニア語学科にかわった。新学科を任されたスペイン人神父が、スペインの<正統な>スペイン語を教えたいと、ラテンアメリカ出身のビジェーガスさんのスペイン語を方言扱いしたことが、帰国の原因になったような気がした。
1997年、2期生一同が渡航費を捻出して、ビジェーガスさんを日本に招いた。彼はコロンビアに戻った後、イエズス会を脱会し、結婚して子供もいるという。奥さんを連れてやってきた。本当に嬉しそうだった。我々もビジェーガスさんと40年ぶりに再会できて、こんなに嬉しかったことはなかった。
私が入学した当時の教師は、授業で科目に関して教えるだけでなく、学生の人格形成にも熱心だったように思う。
海外渡航
移住できる国が、1952年にアルゼンチンとブラジル、1956年にドミニカ共和国、さらに1957年にはボリビアと広がって行った。その理由は日本がまだ貧しかったからだ。しかしこれは若者の不満やエネルギーを国外に発散させようという国策でもあった。
日本学生海外移住連盟という組織が1955年に作られた。上智でもスペイン語文化研究会が移住サークルを新設した。それにイスパニア語専攻の2期生が30名近く参加した。将来、ラテンアメリカへ進出して、活躍したいと願う連中たちだ。しかしまだ海外に出ることは至難の技だった。
私はメソアメリカ古代文明に魅せられていたので、メキシコ行きを希望した。それは我が国にそれらに関する文献も、その専門家もいなかったからだ。その頃、文通していた日系人に相談したところ、メキシコ古代史に詳しい人物として紹介されたのが、メキシコ市在住の荻田政之助氏である。
さらにメキシコ国立人類学歴史学校にも手紙を出したら、その学長から入学を歓迎するという返事を受け取った。しかしその直後、メキシコ市にあるイベロアメリカ大学(イエズス会経営)、つまり上智大学の姉妹校に私立大学初の「人類学学校」(後に「人類学科」と変更)が1960年3月から開設されるという情報を得た。しかも幸いなことに、その創設に携わった教授がアジア諸国歴訪の途中、上智に立ち寄られた。そこで「イベロアメリカ大学で勉強したい」と伝えたところ、入学を勧められた。
ただしその実現には1年半ほどかかった。様々な書類(10本指の指紋を添付した犯罪証明書、戸籍謄本、奨学金を得るための申請書など)を、日本語、英語、スペイン語で作成して、それぞれメキシコ大使館、日本外務省、イベロアメリカ大学に提出して、認可を得なくてはならなかったからだ。大使館は私のために「学生・移民」と書かれた特別ビサを発行してくれた。当時は海外渡航がまだ自由化されていなかったので、国外に持ち出せる米ドルは500ドルと制限されていた。
両親は私のメキシコ行きに口出ししなかったが、母の知り合いの女性から、「神田っ子はメキシコなんぞに行かなくてもよい」と言われた。しかし私の決心は変わらなかった。留学を手伝ってくれたメキシコ人と日系人に善意を感じていて、このような人々が住む国なら間違いないと確信していたからだ。
1960年はラテンアメリカに移住した日本人が戦後最多だった。しかし上智でこの年、ラテンアメリカに渡航できたのは、リグナムバイタ(世界一堅くて重い木材、船のスクリュープロペラなどに使用)の輸入のため、業者によってドミニカ共和国に派遣された同級生と、メキシコ留学した私の2人だけであった。
人類学学校(1)
1960年3月、念願のメキシコ行きを実現した。そこでメキシコにやってきた最初の日本人学生と言われた。しかし日本では当時、メキシコは後進国というイメージが強かったので、勉強でメキシコへ行くという意図が、周りの人たちに理解してもらえなかった。留学といえば、欧米の先進国と決まっていたからだ。しかし来てみると、メキシコの教育レベルは日本と大差なかった。違いといえば、イベロアメリカ大学の学生が自家用車通いだったのに対して、上智の学生は満員電車通いだったことぐらいだ。ただし私はソカロ(中央広場)からすぐのところにあった荻田家(当初、ここに居候させてもらった)から、市の外れにあるサン・アンヘルまで路面電車を利用した。
メキシコの第一印象は、何と豊かな国だろうというものだった。日本では高値の花だったバナナがただ同然だったり、浮浪者風の男がチキンを丸ごと一羽買ったりするのを見たからだ。
それとメキシコで気をつけたのが、レディー・ファーストとテーブル・マナ—だ。女性と一緒の時は男性が車道側を歩く。殆ど貧しい大衆だけが利用する市内バスでも、女性が乗車すると男は必ず席を譲っていた時代だ。もちろん、スープを飲む時は音を出さない。学生国際会議のパーティーに出たことがある。日本から来た学生たちと同席だった。彼らはスープを飲む時、音を出していたので、注意をしたら、「日本式に飲む」と言って、さらに大きな音を出して啜った。周りの者たちがびっくりして、席替えをした。しかし日本の学生たちは顰蹙を買ったことすら気がつかなかった。
人類学学校1期生として入学したこの学校のキャンパスは、サン・アンヘルという市南部の静かな高級住宅地にあった。そこは現在、高級レストランになっていて、天皇陛下も皇太子時代、メキシコで行われた水関係の国際会議に出られた際、このレストランで食事をなされたと聞いた。
学生たちは車を大学前に駐車した。子供たちがチップ目当てにそれらの車を見張っていた。小学校の上級生くらいの年齢なのに、学校には誰も通っていないらしい。この光景が貧富の差に気づいた最初の瞬間であった。
国立大学は、学費が安いので、様々な階層の若者が集まっていた。しかし私立大学は高いので、限られた階層の者しか行けなかった。イベロアメリカ大学の人類学学校のクラスメートは、中でも上流階級の子女ばかりだった。
ルスマリアは「メキシコ革命」の父と呼ばれたフランシスコ・マデロの姪と聞いてビックリした。なぜなら1910年に勃発したメキシコ革命を、過去の歴史上の出来事と思っていたからだ。
アナエレナはメキシコ革命で医者として活躍したことで知られるメヒコ州知事の娘だ。ある時、彼女の父の車で、クラスメートとハイキングに出かけたことがあった。その車は彼女が住む州都のトルカを、信号無視で通過したので、あっけにとられた。
セシリアの先祖は、メキシコ北部に広大な土地を所有していたそうだ。彼女は休暇にはアカプルコのプライベート・ビーチか、フランスの元貴族の宮殿で過ごすと言っていた。
エレナの祖父はスペイン人だが、祖母は先住民と聞いた。つまりエレナはメスティソ(混血)の2代目。そのせいか人の気持ちを思いやる繊細な性格の持ち主だった。しかし彼女は優秀なので、後にハーバード大学で博士号を取得した。
ある時、教師の一人がクラスメートに世界地図を見せて、日本はどこかと尋ねたら、教養溢れる彼女たちが、フィリピンやインドネシア辺りを捜して「日本が見つからない!」と答えた。逆にメキシコがどこか分からない日本人も、その頃はいたはずだ。後にアメリカ・カナダ・メキシコの三国で交わされた協定の名称が、「北米自由貿易協定(NAFTA)」であることから推察できるように、メキシコの大部分は地理的に北米に属する。
留学した年は、カルチャーショックの連続だった。しかし人間は皆同じだと、認識した年でもあった。
人類学学校(2)
人類学学校の教授陣は充実していた。そのうちの五人を紹介する。
まず学校長のヒメネスモレノ先生。メキシコ人類学会の創設者の一人で、アステカ研究の権威。当時はまだメソアメリカ文明に関する詳しい年表もない時代だったので、授業では自作のものを用いていた。また我々をよく古代遺跡や植民地時代の教会見物に連れて行ってくれた。
スワデッシュ先生はアメリカ生まれの言語学者。1948年のマッカーシーの<赤狩り>では、学問の自由のために戦った闘士だったらしい。1954年、メキシコにやってきて、この国の言語学研究の近代化に貢献した。また<言語年代学>の創始者としても国際的に知られていた。しかし私は先生のスケールの大きい、そして人間味あふれた人柄に魅かれた。
ビジャロハス先生はユカタン半島のメリダ出身。インディへニスモ研究所の指導者の一人。マヤ語のネイティブとして、アメリカの民族学者レッドフィールドの調査に協力したことがきっかけで、シカゴ大学に留学して、人類学を学んだ。授業でこの話を何回も聞いた。
ダルグレン先生はスウェーデン生まれの女性民族学者。日本から来た私によくしてくれた優しい先生だった。娘さんの結婚式に招待してくれたこともあった。ミステカ族の研究を専門としていた。
ヨロトルさんは一番若い女の先生で、学生たちの世話役でもあった。国立人類学歴史学校の在学中、奨学金を得てインドに留学。帰国後、人類学学校でアジア研究センターの所長になった。しかしメキシコではまだアジアに対する関心が殆どなかったので、彼女はいつも宣伝のために、インドのサリーを着て、学外で活動していた。私は先生から「メキシコでは、黙っていては神様だって分かってくれないわよ」と言われた。授業で殆どしゃべらなかったからだろう。イベロアメリカ大学で習った先生で存命なのは、ヨロトルさんだけである。
1961年12月、メキシコ市で開催された「日本産業見本市」では、三井物産から依頼されて、コマツのトラクターのアルバイトをした。アメリカのキャタピラが全盛の時代だ。そこに日本のトラクターを売り込もうという役目だったが、「アフターサービスはどうなっているのか」とよく質問された。会場には日産のダットサンも展示されていた。メキシコ人はヨーロッパ製の小型車に慣れていたので、デザイン面であまり評判がよくなかった。ともかくこのアルバイト代のお陰で、翌年1月上旬、マヤ研究の権威アルベルト・ルス教授が引率する「マヤ遺跡巡り」旅行団に参加できた。このツアーで古代マヤ最大の遺跡ティカルにも行ったが、日本人でこの遺跡を訪れたのは私が最初だったに違いない。
同年1月中旬、ペルー在住の天野芳太郎氏(東大のアンデス調査団を協力した人物)から「ペルーに来るなら援助しますよ」という手紙を受け取った。是非実現したいと、再びアルバイトをした。今度は東芝が新設する変電所での日本人技師の通訳の手伝いだった。
大学が休暇中の11月下旬から1963年1月下旬にかけて、ペルー、ボリビア、エクアドルへの一人旅を実行した。
1964年、帰国して上智大学イスパニア語学科の教員になった。この年、日本は東京オリンピック開催、東海道新幹線開通など、目覚ましい発展ぶりを示した。それとは逆に、海外移住熱はアッという間に下火になってしまった。
渡墨60年
1960年以来、60年の間に40回もメキシコをはじめラテンアメリカ諸国を訪問した。
例えば、2回目(1966年)は堀江謙一のヨットによる太平洋一人旅に刺激されて、貨客船で太平洋を横断。その大きさを実感したかったからだ。
9回目(1977年)。メキシコはスペインと40年ぶりに国交回復。早速、独裁者フランコ亡き後のスペインを見たいと、この国へ飛んだ。
15回目(1983年)は、経済活性化のため外国人の入国を認めたキューバに行った。その国民の海外渡航は禁じられていたが、社会状況は安定していた。
23回目(1992年)は、「コロンブス新大陸到達500周年」をめぐる論争の行方や各国の社会状況を知るために、スペイン語圏全体を一巡した。
そして40回目(2019年)。メキシコ留学から足かけ60年になるので、我が母校イベロアメリカ大学人類学科を訪ねて、旧交を暖めた。
私は好奇心のままにメキシコなどへ出かけたが、それぞれに目的があったことはいうまでもない。それらで得られた体験や知識は全て、学生たちに伝えた。
1971年から日本・メキシコ間で、「日墨研修生・学生等交流計画」という制度が実施されるようになり、私はその第1回に参加した。1994年には、この交流計画の元派遣生たちが「日墨交流会」という親善と相互理解を目的とする会を設立した。私はその会長として、80歳まで務めた。この間、一般の人向けにメキシコに関する様々な講演会を開催した。
この他、メキシコを知るための本として、オクタビオ・パスの著書『孤独の迷宮—メキシコの文化と歴史』(法政大学出版局)と、オスカー・ルイスの著書『貧困の文化—五つの家族』(ちくま学芸文庫)を共訳した。
私のモットーは<メキシコに学ぶ>である。メキシコにいる若い日本人にもそうあってほしいと願いたい。
最近の若者はチャレンジ精神に欠けると言われている。それを打ち破るには、まず<好奇心>を持つこと。そして進むべき目標が決まったら、迷わず邁進する。そうすれば、いずれ幸せも付いて来るに違いない。
我が人生は道なき道をがむしゃらに歩いただけかもしれない。しかし悔いは全くない。旅の道すがら、すばらしい自然や文化、そして人々に出会えたからだ。
<旅は道連れ世は情け>と言うが、まさにその通りであった。
編集後記
メキシコのことを長年研究されてきた高山先生に、85年の生涯を生い立ちから現在に至るまでを語っていただきました。先生が見てきた日本とメキシコの85年間。それは後世に必ず残したいと思えるほどの体験談でした。スペインの独裁者フランコ亡き後のスペイン、外国人の入国を認めたキューバなど。目的をもってラテンアメリカに渡航し、その体験談を教え子の方々に伝えることほど、生きた歴史を学べるのだと思いました。
そして言葉一つ一つに説得力があり、その言葉の持つ力強さが編集部にも伝わってきました。特に最も印象に残った言葉が「メキシコに学ぶ」という先生のモットーです。普段何気なくメキシコ人とやり取りをしていて、不満が多くなることが多々ある中でこの一言に重みを感じました。メキシコにいる限りはメキシコにお世話になっている。メキシコに日々感謝し、彼らから学べる事を吸収するべきだと改めて感じました。
編集者紹介:
温 祥子(Shoko Wen)
MEXITOWN編集長兼CEO。メキシコ在住5年半。MEXITOWN立ち上げて今年で3年目に突入。これからも様々なジャンルの方をインタビューしご紹介していきます!趣味は日本食をいかにメキシコで揃えられる食材で作ることができるか考えること。日本人の方が好きそうな場所を探し回ること。