今回のインタビューは、メキシコ国立自治大学等で長年人類学の研究をされている杉浦洋子教授です。
メキシコに来てから約50年。当時女性が海外に行って働くことが非常に珍しかった時代に、杉浦先生は何故メキシコを選び、人類学を学び研究しようと決心したのか。そこには多くの出会いやきっかけがありました。インタビュー前編では、杉浦先生の幼少期から上智大学での学生生活、メキシコに渡った後のお話になります。
<目次>
自分の人生を生きるには日本から出なければいけない
ー杉浦先生の幼少期の頃の想い出から、上智大学イスパニア語学科を選択されたことや学生時代の思い出などをお話しください。
杉浦先生:私は愛知県・名古屋市で産まれ、幼少期から日本を出るまでを神奈川県・鎌倉市で育ちました。私が産まれた頃の日本は大変な時でしたが、戦後の大変な中でもあの頃には夢がありましたね。現代社会では「一体どうしたら世界を救っていけるのかな」という気持ちをお持ちの方が多いのに対して、その頃は「何処かにいい世界があるんじゃないか」という希望がありました。
そんな戦後の世の中でも幼い頃は鎌倉で育ち、海の近くに住んでいたのでよく裸足で海に行っていました。また、鎌倉は家などを建設する前に発掘調査を行うと、昔使われていたものが発掘されることで有名です。私の親戚が鎌倉で発掘をしていたため、小学校4年生の夏休みに見学した時、「昔の人の生活を知ることができて楽しそう、自分も同じようなことをやりたい」と思い始めるようになりました。
ーその後、上智大学イスパニア語学科にご入学されます。
杉浦先生:小学校から高等学校まで、スペイン系のカトリックの学校で勉強していたため、
スペイン語の雰囲気に囲まれた環境にいました。高校生の時に上智大学からサルスエラの歌劇の方がいらして講演されたのを見て、「これは面白い!そうだ、私はスペイン語を勉強していずれ日本から出ることを第一目標としよう」と決心しました。第2次世界大戦の数か月前に生まれていた私は、いわゆる過渡期の人間です。女性としては非常に難しい世代だったことを高校生の時には少しずつ感じていました。自分の人生を生きるには日本から出なければいけない。女学校にずっと通っていたので、少し違ったところにいこう。そこで選択肢の一つとして上智大学が魅力的に見えました。今でこそ上智大学は女性が多い大学ですが、男子校だったこともあり、私が入学した当時は殆どが男性でした。男子学生40数名のうち数名が女性だったんです。
日本を出て一つの "Un numero" として生活したい
ー今の上智大学を知るものとしては、想像がつかないです!どんな学生時代を過ごされたんですか。
杉浦先生:大学時代の4年間は人生で最高の時間でした。生き生きとしていて、勉強も楽しくてやりがいのある時でした。例えば、上智の図書館。MEXITOWNさんもご存じの通り素晴らしい図書館ですよね。夏休みとなると涼しくて静かな雰囲気の中で、スペインの哲学者の本やメキシコの考古学の本を読み漁っていました。当時は部活動も盛んで、スペイン語の新聞クラブ(correo(コレオ))に所属していて、スペイン語の新聞を書いて楽しくやっていました。他の大学とは違う、”上智大学”という特別な雰囲気がありましたね。
そして大学を卒業後のことを意識するようになりました。当初は大学を卒業して、大学関係の仕事に入りたいと思っていました。しかし、ある親戚の大学の先生に相談したら「女性がとんでもない」と指摘され、絶対に日本を出ないと自分の人生は生きていけないと感じました。全てにおいて女性が生きずらい時代だと改めて痛感しました。
このまま日本にいては女性としての生きる道が閉ざされてしまうと思いました。会社に就職することはまず考えられず、自分の行きたい道を行きたいという意思は固かったです。縦社会の日本では行動する範囲が非常に狭く、日本を出て一つの "Un numero" として生活するということが好きな道を行くことであり、それが一番の目標でした。
そんな風に悩んでいた頃、メキシコで修士号を取得し、上智大学で教鞭をとられていた高山先生の人類学のコースを学ぶ機会がありました。高山先生の授業に感激し、メキシコに興味があることをお伝えしたら、高山先生の恩師で著名な人類学者として有名な東京大学の石田先生が主催する新大陸研究サークルをご紹介いただき、東京大学に聴講生として授業を受けに行きました。
また、在日本メキシコ大使館の改装を記念したメキシコの民芸の展覧会があった時、メキシコの初代の人類学者で著名なRubin de la Borbolla 博士にお会いする機会がありました。自分の人類学を勉強したいという想いを伝えたら、「私の家にいらっしゃい」とお誘いを受けました。
ーそれが、杉浦先生がメキシコに行く大きなチャンスとなったんですね。
杉浦先生:それでもメキシコに行くまで2~3年間かかりました。両親は大反対でしたから。それでも唯一見方をしてくれたのが、祖父でした。祖父はヨーロッパで留学したことがあり、勉強するためなら女の子でも自分は援助すると背中を押してくれ、全て条件を整え、片道の航空券を買うためのお金を貯めました。
そしていざ羽田を出るその日。まるで肩の荷が下りたように、宇宙を飛んでいくような気分になりました。後から聞いた話ですが、姉はそんな私を見て、日本には戻ってこないなと感じたようです。また、高山先生のもとに私の母が行き、私のメキシコに行くことを止めるように懇願していたようでした。
ーそれだけ、当時メキシコというと日本人にはほとんどなじみがなかった。だから杉浦先生がメキシコに行くということに反対だった・心配だったということですね。
杉浦先生:そうですね。でも日本に対して持つイメージはFUJIYAMAと芸者、日本人がメキシコに持つイメージはサボテンとロバ、そしてテキーラを飲んだような人がいるくらいだったので、女性一人でメキシコに行くということがとても信じられなかったようです。
そしていざメキシコに到着。なんて素晴らしい国なんだろうと思いました。独特の雰囲気に私はすっかり魅了されました。
イベロアメリカ大学に入学し、そこではカルチャーショックを起こしましたね。イベロアメリカ大学の女学生を見て驚きました。なんと運転手付きの車に乗り、宝石も指に沢山はめてお化粧もとても派手。人類学しかなかったので、私にはとても向かないところだと感じ、2年後に国立人類学学校に編入しました。その後、4年間で修士を学び、UNAMで博士号を取得しました。
生きていくためには何でもした学生時代、メキシコで初の日本人の日本語教師となる
同時期の1968年頃メキシコで最初の日本人の日本語教師として日本語を教えていました。丁度修士課程が修了し仕事がなかった時、El Colegio de Mexicoの東洋科の先生に日本語の先生になったらどうですか?と誘われました。その当時のメキシコの日本語教育はアメリカの教科書を使っていましたので、語学を教える方法が日本と全く違いました。私は上智大学でスペイン語を教えてくださった先生方の教え方で日本語を教えていきました。
ー人類学も勉強し、日本語教師としても働く、とても忙しい生活だったんですね。
杉浦先生:学生だった頃は食べていくのに必死でしたから、出来る事は何でもやりました。その当時日本で外貨の規制があり、1年間で250ドルしか持っていけなかったので、現地での生活は大変でした。学生時代は食べるか本を買うかでした。
そして博士号はアメリカで学ぶつもりでしたが、アメリカ人の主人(のちにメキシコ国籍を取得)と出会い結婚してメキシコに残ろうと決めました。もう20年以上前に亡くなりましたが、主人は現代音楽の作曲家で仕事の面でも70%は家庭のことを手伝いっていて大変助かりました。稀に私が4か月超野外調査で遠方に行かなくてはいけないときも、子供の面倒を見てくれました。自由に仕事が出来て、そんな人と出会えて私は運が良かったのかもしれません。
ーとても素敵な旦那様だったんですね。奥様が外で働いている間も支えてくださる。改めて人生において人との出会いが大切だということを感じました。
杉浦先生:その通りですよ。高山先生にお目にかかってなく、東京大学のアンデス研究にサークルに入っていなければ、他の国にいっていたかもしれないです。人との出会いでお話しするならば、主人と息子と私の家族3人、親戚もいない中で素晴らしい友達にも出会えたことが一つの救いでもあったかもしれません。
(後編に続く)
後編では、杉浦先生が考古学研究で大変だったこと・やりがいを感じたことや、海外で働く方・若い世代の方へのメッセージについて語っていただきます。
経歴:
杉浦(山本)洋子 Yoko Sugiura Yamamoto
1965年 上智大学イスパニア語学科卒業
1973年 メキシコ国立人類学、歴史学学校、メキシコ国立自治大学、人類学(考古学専攻)修士号
1991年 メキシコ国立自治大学、人類学博士号(考古学専門)
1968年―1970年 メキシコ国立自治大学、外国語学部講師
1969年―1974年 El Colegio de Mexico、アジア、北アフリカセンター講師
1977年―1982年 国立科学技術省 (Consejo Nacional de Ciencia y Tecnologia)所長顧問(アドバイザー)、Ciencia y Desarrollo 編集アドバイザー
1980年―1991年 メキシコ国立人類学歴史学学校講師
2000年―2013年 メキシコ国立自治大学、人類学大学院課程教授
1975年―2017年 メキシコ国立自治大学、人類学研究所 専任主任研究員
2018―現在 El Colegio Mexiquense A.C. 特別研究教授
1992年―2000年 国立考古学審議会員
1994年―1996年 国立科学技術省、人文科学部審査委員会員
2001―現在 Ateneo de Estado de Mexico A.C. 名誉会員
2009年 メキシコ国立自治大学、Sor Juana Ines de la Cruz 章、受賞
2021年 メキシコ州科学技術賞、人文、社会学部門受賞 (Premio Estatal de Ciencia y Tecnologia)
2023年 Sustema Nacional de Investigador, nivel III, emerita (名誉)
学会:Conacyt評価委員会(大学院研究者、プロジェクト、SNI)、アメリカ考古学協会(SAA)、メキシコ人類学協会メンバー
受賞歴:
・2009年 Sor Juana Inés de la Cruz otorgado por la UNAM 取得
・2010年 Antonio García Cubas Award 科学部門 佳作受賞
・2021年:Premio Estatal de Ciencia y Tecnología 受賞
主な書籍:
1: -2009. Sugiura Yamamoto, Yoko (coordinadora), La gente de la ciénega en tiempos antiguos: la historia de Santa Cruz Atizapán, El Colegio Mexiquense-UNAM, ISBN 978-607-02-0733-4, (2010年度、INAH, México, Antonio Garcia Cubas 科学部門慧作受賞)
2: -2016 Sugiura Yamamoto, Yoko, José A. Álvarez y Elizabeth Zepeda (coords) La cuenca del Alto Lerma: Ayer y hoy, Su historia y su etnografía,El Colegio Mexiquense, Comisión para la recuperación de la cuenca del Alto Lerma, Gobierno del Estado de México, Toluca, pp. 499, ISBN:978-607-495-478-4
3: -2018Sugiura, Yoko, Carmen Pérez, Elizabeth Zepeda y Gustavo Jaimes (ed), Acercamiento a un sitio lacustre: métodos, técnicas e interpretaciones de un mundo prehispánico en la cuenca del Alto Lerma, Universidad Nacional Autónoma de México, ISBN 978-607-30-0033-8,pp.442.
4: -2020 Sugiura Yamamoto, Yoko, Gustavo Jaimes Vences, María del Carmen Pérez Ortiz deMontellano, y Kenia Hernández (coord.),Cerámica y vida cotidiana en la sociedad lacustre del Alto Lerma en el Clásico y Epiclásico (ca. 500-950 d.c.), El Colegio Mexiquense A.C., ISBN: 978-607-8509-54-6
5: -2021 Sugiura Yamamoto, Yoko, Gustavo Jaimes Vences, María del Carmen Pérez Ortiz de Montellano y Rubén Nieto Hernández (Coord.), El estudio de la cerámica cotidiana del valle de Toluca desde una perspectiva arqueométrica”,El Colegio Mexiquense A.C.,ISBN: 978-607-8509-85-0